昭和49年11月13日 朝の御理解
御神訓 一、「神の恵みを人知らず 親の心を子知らず。」
神様のお心が段々分かって来ると言う事が、金光様のご信心です。天地金乃神様の御心が、金光大神のお取次によって、金乃神様の御心が、次第に深く広く分かってくる。それが金光様の信心。それを身近に実感的に分からせて頂きます表現を「親の心を子知らず」というふうに御理解くださっている訳です。親になってみて分からせて頂くのですけれども、本当にどの子もこの子も、幸せになってもらいたい。あの子はいっちょ不幸せになればよかがと思うような親は一人もいません。
幸せになってくるような人だけしか思わない。これは親になってみてそう思うんです。一人ひとりの子供が、どうぞ幸せになってくれるように。しかもその思いは切です。そういう思いを天地の親神様は、私ども人間氏子の上にそういう思いを、思い願い祈って下さってあるのです。ですからそういう神様の願いを、私どもが分からせてもらい。その願いに応えると言う事が、信心だと言う事も云えます。
ここん処が分かってまいりませんと、そこん処が分かっての信心になってまいりませんと、本当のおかげになってこないんです。いわゆる信心によって本当の幸せを頂くと言う事になってこないのです。昨日一昨日でしたか、福岡の松岡さんがその前の日に、家族中で参っておられたんです。そしたらまた一昨日松岡さんが一人で参って見えました。それが今日は、特別なお願があって参ってきましたとこう言う。あちらの奥さんの弟さんが、浮羽町の方で製材所を営んでおられた。
それが何かの手違いで失敗してしまわれて、そして夜逃げ同然で何処へ行かれたか分からなくなって九年間音信不通である。行方不明になっつておられた夫婦で。それが先日、あちらから手紙がきた。大阪に居られることが分かった。しかも事業も軌道に乗り、マンションを建てて、生活には事欠かないような幸せな生活に段々なって行っておるから、安心してくれという、親戚中に、そういう手紙が来た。
それはほんのつい此の頃じゃった。所が前の晩に奥さんから電話が掛って来た。それも泣きながら何と云うてるか分からん位な声で、電話掛って来た事を聞かせて貰うとです。最近弟さんが身体がちよっと不調である。調子が良くないから念のために一辺病院に行きなさいと言うて、病院に行って診察をしてもらった。所が腸癌である事が分かった。医者は難かしいと言う、受け合われんと云う。
本当に人間がですよ自分の我力でも、それこそ裸一貫同様で、夫婦の者が出奔されて、何処におるか九年間もの間音信不通である。その九年間の間に夫婦の人達が協力して、一生懸命働かれたと言う事は、想像されます、感じられます。それこそもう一遍成功しなければ、田舎にも帰られないと言う様に、一生懸命の働きをされた事であろうと思う。そして功な、故郷に錦を飾って帰れる寸前になっておられた。所がです功なったという時には、既に命の方がないと言う事に、危ないと言う様な事になっておる。
これはね信心のない人達の、全てに同じ意味の事が云えると思うんです。そのように極端ではなくても。一生懸命頑張った一生懸命働いた。財産も出来たその時点でです、そんなら自分の生涯を振り返ってみて、自分も成功者の一人に数えられる位な成功を収めたに致しましてもです。いうなら終着駅が近づいてくれば、近づいてくるほどです。そこに私は結局何のために働いてきたか、何のための財産であったかと思わせて頂くような、寂しい結果になるのです。
信心はねそこに松岡さんと弟さんの二人の兄弟を、対比しても分かります。松岡さんが福岡に出られる時分は、一番難儀な時であった。親戚から金を借りてささやかなうどん屋を始められたと言う事が始めであった。それが段々おかげを頂いて、今日の繁盛を見るようなおかげを受けておられるのである。いうならば物心共に育ってきた。心と物財産も一緒に育ってきた。
私はこういう処のです人間の哀れというものを、見たり聞いたりする時にです。本気でお互いが信心させて貰うて、おかげを受けなければいかんな、おかげだけでなくお徳を受けなかければいけないなと思います。昨日は美登里会でございましたから、いろいろ信心の研修をさせて頂きました。いつも私は感心するんですけども、中島の上滝さんが、ここで、お届けをいたしますことです。皆さんもご承知のように大変おかげを頂いております。四人の息子達が実に名臣です。
よく親孝行を致します。又嫁御が本当に行き届いた嫁御ですお母さんも八十でしょう。ですから死んなさってから孝行は出来んから、生きていなさる内に喜んでもらおうと云うので、この頃上滝さんお母さんの、いわば隠居所を作るというお願いをしておったのが、昨日の話を聞くともう大工が入って、切り込みをやっていると言う事であった。親先生最近特に思わして頂きますのは、本当に私のように恵まれた者はおりません。何かにの上におかげを頂いて本当に有難い。
最近思わせて貰うのは本当に嫁が素晴らしい嫁で、行き届いて親孝行してくれる。その事を思うた時にです。本当にこの嫁のご両親にこれはお礼を言わなければ相済まんと言う事に気付いてきました。本当に長い間娘を育てるとに、色々教育し育てさせて頂いてしかもこんなよい嫁に育てて頂いて、私は何も手も要らずに只嫁から尽くされるだけの身分にならせて頂いて、この様にお育てなさった親にお礼を云わにゃおられん。
せめて年のうちの盆正月だけぐらいは、向こうの親に両親に手をついて、お礼と自分が感じている喜びを聞いてもらわないとおられない衝動にかられる。だから先日からその事を、わざわざお礼にやらせて頂いたら向うの両親も、本当に喜ばれたと云うお届けを致しました『素晴らしいですね』また本当に云う通りおかげを受けている訳です。お金に不自由する事なし一家中が円満でしかも健康で、いうなら最近合楽で云われる処の、極楽の確認とも言いますね。
本当に信心さして頂いておるおかげで、こう言う様なおかげを頂いておる。私があんたが信心が別に出来てる訳ではないのに、このようにおかげを頂いておると言う事は、これはとりもなおさずあんた家のお父さん、上滝勇さんが二十四五年にもなりましょうか亡くなられまして。その後如何に御霊があの当時の椛目のお広前での信心、あの無い命を助けて頂いて、御用をさせて頂いておった御霊の働きというものを思わなければおられないねと。やっぱり家の根というものが。
しっかりした徳を持っておかげを頂いて、若死ではあったけれども信心の徳を持っていっておったおかげで、今日のあんた達が今云う極楽の世界に住んでおると言う様なおかげを受けておると。そこでです過去二十数年前の、主人が亡くなったという御霊様が亡くなったという、その時点で本当にあの時には、目の前が真っ暗になるような思いをしたけれども。その後においてのおかげというものがです、思う時に御霊様に本当に心からお礼を云わなければおられない。
果たしてどの程度にお礼が云えているだろうか。果たしてどの程度に神様に神恩報謝の心が出来ているだろうか。今合楽で云われる合楽示現活動と言う事は、そういうおかげを受けた人達が、合楽示現活動と言う事を為すならば、素晴らしい成果を見る事だろうと思う。私を見て下さいこういう風に息子達が、嫁達も親も皆この様におかげを受けて、極楽の世界に住んでおると言う事を確認したら、それを人へ伝えていくのが合楽示現活動なんだ。所がどっこいその極楽に、座り込んでしまって。
合楽示現活動てんなんてんと言う様なこつは、そげなこつのいつもお参りする度に、そんな話を聞く事は聞くばってんという位で終わっておると言う事は残念だ。というて上滝さん、合楽示現活動をさせて頂かなければ、相済まんばいと言うても、言うて出来る事じゃない。自分の自覚が出来なれれば。自分の命そのものが翻然として、そこに気付かなければ。これは他に例をとって、ここでおかげを受けている人達のです。
もう本当におかげを頂いて事業も繁盛しておる。おかげで健康でもあるというのですけども。人徳を受けていきよると言う様な意味でのおかげは頂きよるけれども、そこまでおかげを頂いて、合楽示現活動と言ったような活動に、参画させて頂く事によって、神徳が受けられるという寸前にまで、おかげを頂いておりながら、そこで停止しておる。合楽を目の前に見ながら、常持で安住しておるという意味なんです。
だから人間というものは、おかげを頂いてあれにも不自由せんようになった。信心は止めませんおかげと言う事だけは実感してるから。けれども自分達がおかげを受けておるという、マイホーム的なものだけであって、このおかげをこの喜びを人にも聞いてもらい、人にもおかげ頂いてもらいたいと言う様な、熱情というものが湧いてこなければ、示現活動になってこないのだ。むしろ病気をしておる。
まだ本当に金に十分と言う事ではないと言う様な人達が、信心させて頂いている事の有難さに目覚めて、自覚してまだこれから愈々おかげ頂いていかなけねばならないと言う様な方達が、本気になって合楽示現活動をやっておると言う事実があると言う事です。だからお互いが誰が見ても、極楽という様なおかげを頂く前にです。本気でここん処の信心を叩き込んで頂くと言うか、力を得ておくと言うか、本当の信心を頂いておかなければ、只極楽にというだけでは、あの世に持っていくものがないじゃないか。
あの事を思うたらこの難儀な事を感じたらです。朝参りの一つもさせて貰わなければおられないと言う様な人達が、返って本当の信心が出来ておると言う事になって参ります時に、私は今日の「神の恵みを人知らず」という処です。だからどれが神の恵みかと言う事なんです、どう言う事が神様の恵みかと言う事なんです。私は昨日二十数人の方達がみんないっぱい並んでおります。一人一人の上に、どんなに考えたっちゃとてもおかげ頂いてるのということでした。
秋永先生方の今度の京子さんの結婚式の事からでしたが、側にずうとおられます人達、高芝のお母さんが、高芝さんあんた方の息子達の嫁、または娘婿とか娘もうどんなに考えたって、一人一人がおかげを受けておると言う事実をね。まあ一人一人おかげを受けておると言う事実をね、言って、秋永先生の処だけじゃない、銘々の家もそういうおかげを受けておると言う事に対しても、例えば秋永先生達がです。
例えばあちらのお母さんが、お父さんどんなに考えても、家の京子はもし私が息子を持っておって、京子ば貰わんなんち言うなら私なら貰いは切らんち。それを京子じゃなからねばならんと言うて、しかもそんな立派な相手の人も立派ですが、両親家族も実に立派なんです。そういう所から貰われたというが、どんなに考えでもおかげ。とてもこれは普通のお礼じゃいかんばいと言うて、お父さんと話し合ったとこう言うのです。だから銘々の処の、それを置き換えてみると、おかげを受けておる。
例えば熊谷さんがそうにゃ、久保山さんに言った事でしたけれども。あなたのところだってそうであった。そして七十五にもなられてから、毎日毎日が合楽示現活動に参画させて頂くと言う事を、本気で願われる。毎日二人三人の人にお話しない事は無い。毎日カセットを持って話を聞いて貰われないと云う事はない。最近ではあちらの家に、お話を聞かせてくれと云うてくる人達が段々出来てきた。しかも、様の働きというか示現活動に参画させてもらう。今日も御用に遣うて下さいという気になるとです。
必ずそこにお話しをしなければならない人達に巡り合わせて下さると言う事。だから熊谷さんの何処から、あぁいう信心が生まれてくるだろうか。これは一つ本当に研修してみなければいけないね、熊谷さんの信心をつまびらかにして、何処からあぁいう信心が生まれてくるかと言う事を、皆で話し合った事でした。そして結局結論として過去のすべての事。いうならば忌まわしい事もあった、または難儀の事もあった悲しい事もあった。その時には、これほど信心するのに。
こうしてこの様な事がと言う様な事もあったけれどもです。その一つ一つが全部その事のおかげでと云うて、過去が全部生きておると、また生かしておられると言う事です。裁判に負けた事も。息子さんが何回大学に受験しても出来んはずはないと言われる息子さんが、出来なかった事もまだ色々あります。それが出来なかったおかげで、裁判に負けたおかげであういう忌まわしい事があったおかげで、今日の私があるという信心をはっきりそこに、浮き彫りにしておられると言う事だと云う事でした。
過去においてほんにあげな事がなかったなら、まちっと位ましだと言う事が全然ない。信心とはね過去の一切を生かす事なんだ。だから過去の全てが生きてくるから、現在が助かっておるのだ。過去が生きて来た。あん時にあげな病気しとらんならば、今時はまちっとましなと言う様な事ではなくて、あの病気のおかげで、今日があるんだと言う事になってくる時に、その病気が生きてきた。
だから過去が生きてくるのですから、未来もまたこれと同じおかげが受けられると云う処にです。私は死生の安心があると思うです。過去を生かしどの事を思うても、あの事のお陰でという風に思えると言う事は、過去が生きてきた訳です。だから現在は助かっておるとい鵜ことが云える訳です。だからこれからの事、未来の事もです、この生き方でいけば安心。本当の御霊、あの世も持っていけれる程しのおかげになるという事が、確信されるから、死生の安心いうものも生まれてくるのです。
いうなら、過去の一切が、生きてくる処のおかげを頂くと言う事は、そのまま神の恵みを人知らず、神様の御恩恵、お恵みというものが分かった。それは忌まわしい事もあり、悲しい事もあるけれども。その事も神様のご恩恵であった、お恵みであったと気付かせて頂苦と言う事なんですから素晴らしい「神の恵みを人知らず、親の心を子知らず」と云はれる、親の心は勿論の事、神様のお恵みが分かった。神様のお恵みが分かった処からです、一切が生きてくる訳なんです。
そこに熊谷さんの信心と上滝さんの信心。だから是から上滝さんのような、皆さんもご承知のように弁は立ちますし、中々お話が上手です。そしてあれだけのおかげを引っ下げて、示現活動に出るならば、上滝さんの話を聞かない者は、ほんなことあんた方はやっぱ信心のおかげのと云わにゃならん程しの、誰が見てもおかげの状態の中にあるのですから。だからもう一歩という処だねと。
所が過去の様々な難儀の所を通ってきて、今日熊谷さんがおかげを頂いておられて、それこそ極楽の確認が出来た処からです、神恩奉謝の心が、そこから自ずと生まれてきて、それにお応えする所信心が今日の熊谷さんの信心だと思う。皆さん「神の恵みを人知らず」と仰る。神の恵みと言う事がどういうものであるかと言う事が、今日は大体分かって頂いただろうと思うのです。
過去の事の一切が生きてくる。と言う事は今日ただ今頂いている処の難儀と思うておる、難儀そのものも神の恵みであると言う事が分かって来る所からです、真の信心が出来るのです。唯おかげを頂いて極楽の事あるおかげを頂いているという間はそれは人徳的おかげ。いうならば人間の見た目でのおかげ。そういうおかげを頂いてです、極楽の確認が、お互い出来て、そこから示現活動に参画させてもらうと言う様な信心になった時にです。始めて過去の一切が生きて来る様な結果にもなってくるし。
人徳の世界じゃなくて神徳の世界。そこに安らぎ安心のおかげが受けられる。過去が生きてくる、現在助かっておる。だから未来もまたこの通りのおかげが受けられるという確信が出来る処に生まれてくるのが安心です。そこには死の恐怖もない、安らかな心で宗教のぎりぎりのものは、神仏による死生観を得ることだと云われています。昨日北野の秋山さんが、お届けをしておられますが、あちらの嫁入っとります嶋野さんの、あちらのお父さんが、一昨々日亡くなられた。
それで日曜のたんびに嶋野さんがお参りしてくる。朝の御祈念に、夕べは親戚中みんな集って刻々の処でしたけれども、ちよっと合間を見てから、お参りさせて頂いたと言うて参った。泣いて来とった。それから帰らせて頂いたら「もう難しい」という様な所であった。そしたら病人が以前胃癌でおかげを頂いた方である。そして今度は別の癌で、もうお歳ですから、お爺さんで亡くなられた訳ですけれども。その間のおかげというのが、苦しまんならん筈のつが苦しまんで本当におかげ。
息の切れられる嶋野さん帰られてから間もなくだったそうですが、親先生親先生ち言うて、病人さんが云われるからね、大黒様をいつも親先生と云いよったげなけん、大黒様を胸に抱かせたら、親先生親先生と、大黒様をどんどんさすられて、親先生親先生と言いござったが「お神酒をくれ」と言われる。だからお神酒を与えられたのと息を引き取るのが一緒じゃった。こげな珍しいお国替えちゃ、信心のない親戚の方達も本当に嶋野さん達夫婦が、一生懸命、合楽にお願いをしてくれたおかげで。
こんなにも安らかなおかげを頂いたと言うて、秋山さんにお礼を言われたそうです。親戚の方達がみんな。と云われるような、有難いお国替えであった。とにかく親先生を信じておるところからです。いうならば親先生を撫でさすりしながら亡くなられた。だから私達も信心によってです。そういう安らかなおかげの頂けれる確認というものをです。生きておる間にそれを知っておかなければならないと言うのです。
例えどういう処に直面しましてもです。それが過去の事が全部生きてくる、過去の一切が無駄じゃない。いや無駄所か、過去一切が神様のお恵みであったと気付かせて頂く様な所からです。過去が生きてくる、現在が助かっておると言う事なんですこれは。過去の一切が生きてくる、生かしたと言う事は、今日助かっておると言う事なんです。だから未来もこの調子でおかげを頂けれると言う事にです、日々をそういう死生の大安心を頂きながらの信心生活が出来ると言う事になるのです。
そこには根本の所は、神の恵みが分かったと言う事です。神のご恩恵というのは、唯人間の都合のよいことだけが神の恵みではなくてです。いやむしろ上滝さんの例を取りましたが、それこそ結構毛だらけと言う様なおかげを頂いておっては、返って次の神徳の受けられる世界常持の世界から、合楽の世界に飛躍する事は出来ないと云う事です。返って難しいという事です。
だから結構毛だらけいうごたるおかげの前の所でです。今日聞いて頂いた様な信心が身についてくると言う事が有り難いと言う事が分かります。それを人徳的おかげと言うか唯お陰の世界という世界から、神徳の世界。死生の安心喜びというものも、はっきりと分からしてもらえれる、過去の一切が生きてくるような信心を頂いた時に、過去の一切が神の恵みであったと分からせてもらう時に、現在踏んまえておる問題を持っておっても、それもお恵みであると分かる所にです。
今の難儀なら難儀ということに対して、お恵みですから、お礼を云わなければおられない心の状態が人間の助かっておる姿だということなんです。この調子で行きゃ、未来もまた、有り難い光明の世界を、そこに感ずることが出来るのです。そういう信心を愈々身に付けたい。「神の恵みを人知らず、親の心を子知らず」親の心が分かって、初めて親孝行が出来、神の恵みを恵みとして分からせて頂いた時に。
初めて神様に喜んで頂けれる氏子としてお取り立ていただいた事になる。それこそ誰に云われんでも、頼まれんでも、自分の頂いておるおかげを、人にも聞いて貰い、難儀な人達に聞いてもろうて、自分のようにおかげを頂いて貰いたいという願いも、自ずと立ってくる。そこに本当の意味においての合楽示現活動が出来るのです。いうならば神様も喜んで下さり私共も喜び、喜びあえれる合楽の世界を顕現してゆくおかげが受けられる訳であります。
どうぞ。